ガーベラという花

2週間程前から、自宅に一輪のガーベラを挿している。

彼氏みたいな彼氏じゃない人、古典的な言い方をすればボーイフレンドが私にお古のギターをくれると言って家に来た日、ギターを貰う記念日、と思って少しワクワクしながら買ったガーベラだ。

色は真紅に少しだけオレンジを混ぜたような具合で、これからギターを弾くことや彼とのひとときをなんとなくイメージして、直感的に、駅の改札で彼を待つ間に一輪、選んだ。

 

そのガーベラはしばらくの間あまり存在感を示すことなく、自宅の小さなローテーブルの上に置かれていた。

私もガーベラをあまり意識することなく、ガーベラも一輪ひっそりとローテーブルに佇む生活が続いた。

 

今現在私はうつ状態と診断を受けて休職しているのだけれど、生活はまあまあほどほどに荒れている。

一日中寝ているような日も多く、当然食生活もめちゃくちゃで、人を呼ばない限り掃除もしない。そんな状態だ。

 

そんなだから、本当は毎日水替えや諸々のお世話をしないと長持ちしないのが花なのであるが、水替えをしなくても、ガーベラは毎日綺麗に花を咲かせてそこに在ってくれたので、私も、「ガーベラは長持ちするんだなあ」くらいの感想しか抱かず、それ以上になんの感想も抱かなかった。

 

 

幾日か経ってある日ふと、ほとんど何も手入れしていないガーベラを見ると、なんだかとても「怖い」と思えてきた。

この怖さは、生き物の持つグロテスクさを目の当たりにした怖さと通じるものがあった。

 

生花店に置かれているような生け花は、花ざかりかそれより少し前のものが置かれていて、ほとんどの場合、買い手本人か贈り先の相手を喜ばせるためにその頃合いを見計らって店に並ぶものだろう。

そして、あるものは選ばれ、あるものは選ばれず、選ばれたものは花を咲かせたその場所で、周りの目を楽しませたり、その場の雰囲気づくりに一役買ったりする。手入れをよくする人は花を長持ちさせるし、その花もいずれは枯れる。動物と違った形で、花は生き物なのだ。

 

なのに、今私の目の前にあるガーベラはどうだ。そこで呼吸し、水を吸って生を永らえているはずなのに、なんの手入れもせず、特に見て楽しむこともせず、荒れた生活の中で、特別意識することさえしなかった。無機物と同じように扱っていた。そんなガーベラが、突然私の目の前に、「生き物」として立ち現われてきたのだ。

 

怖い、生きているんだ、と思ったら、ガーベラにこの数日をずっと監視されていたような、なぜ私をちゃんと見てくれないんだ、なぜきちんと世話してくれないんだ、と責められているような気にもなった。

 

同時に、このガーベラの哀れさを想った。

手入れも鑑賞もしない私にですら選ばれたものの、たった一輪で、受粉もせず、時が来れば枯れゆいて捨てられるだけの命、鉢植えでない、生け花の宿命と言えばそれまでだけれども、たった一輪で、散らかった部屋の中で、カップ麺の空容器と同じテーブルの上で、健気に、何も言わず、ただ死を待っているこの花は、なんと哀れなのだろう。

 

私はふと思った。

「花は恋をしないんだな」

 

 

あれから2週間以上が経って、私はたった1回しか水替えをしていないのだけれど、まだ、このガーベラは枯れることなくローテーブルの上にある。

ただ、色に少し翳りが出てきて、もう老年の生き物のような風合いを出している。今もまだ少し怖いと思う時があるけれど、静かに私に寄り添って、私の荒れた生活を見守ってくれる老人がそばにいるような心地さえする時がある。

 

怖い、と一番はじめに思った時のガーベラは、きっと花盛りの時のそれで、私にはなんとなく、女盛りの女が誰の相手にもしてもらえないことへの苛立ちのようなものを、花から感情のようなものとして受け取ったような気持ちになった。

 

 

ガーベラは相変わらず、特に鑑賞されることも世話されることもなく、そこに在る。

おそらく枯れるまでは、放っておくだろう。

ただ、枯れてしまってこの花をゴミ袋に入れる時、私は、たった一輪の花の一生と生の重みのようなものを感じるような気がしている。

 

今まで生活に彩りを添えるためだけに幾輪もの花を生け、処分してきたが、このガーベラに詰まった想い出は、私にとっては生と死を司る問題をはらんだもので、とても重く、怖ろしく、考えるのも嫌で、今すぐガーベラを消滅させてなかったことにさせたいほどで、だから、だからこそ、

花は怖ろしく、美しいのだろう。